初演を日生劇場で見たのは1993年ということだから、実に22年ぶりということになる。
その間、松村さんは上演のたび何回も改訂、そして亡くなったわけだ。
初演を見たオペラ初心者のわたしは、なにぶん暗くて暗くて、オペラというよりオラトリオ、なんだか、ドラマトツルギーとは無縁の作品という感じを受けて、正直、閉口したものだ。
松村さんの音楽は、なんとなく、音に情感というか、ある種の官能性があって、現代日本音楽の中で、一番気にいっていたので、日本にオペラは無理なのかなぁなどと、とても、残念な気がしたのを憶えている。
それに、ベルクの「ボツェック」や「ルル」にもいえるけれど、どんなに音楽が良くても、辛気臭すぎるオペラは、勘弁という、ヘタレな気分になっていたこともある。ま、若気の至りがなくなってきていたという事なんですな。
さて、「沈黙」ですが、現代日本のオペラの名作として定着しているみたい。今度は、なんと、NNTTの大ホールでやるらしい。
松村さんが、心を砕いて、上演ごとに改訂しているということだし、聞き手の私も、少しはオペラに慣れたので、また行ってみてもいいかと思ったのだ。
というわけで、松村さんの「沈黙」との久しぶりの再会、確かに私の見た日本のオペラの中では、ぶっちぎりの名作だと思ったのでした。何しろ、音楽が、私ぐらいの籐四郎にはちょうどいい、聴きやすさで、うっとり楽ちんなのだ。
オケの音も、東フィルだったからか、なかなかに、つややかな、響きがしていました。
それに、演出の力か、改訂で音楽に、劇性が増したのか、短い情景の連続という性格は、オペラ的ではないかもしれないが、なかなか、スムーズな劇進行で、わかりやすい。
あの、長い小説をオペラに仕立てたんだから、すごい、力技である。確か、リブレットも、松村さんが書いたんだよね。
舞台も、20年の差は、絶大で、オペラらしい、仕立てで、楽しませてくれます。
ということで、大満足の結果となりました。
で、またいく?
行くけど、疲れが取れたらね、という感じでしょうか。
いってみれば、「沈黙」のストーリーというか、主題ですが、転向というのは、確かに私の若い頃は、まだまだ、生々しい肉の臭いのする記憶だったわけで、切実なものがあったといえます。
さらに、信じる理想と現実の苦さなんて、なんだかドスト的な主題は、若い時には思い込みによるライブ感もあるわけです。
しかし、ジジイの立場に安住するようになると、自分自身のこととして、真正面に受け取るには、無理がある、という気がしてしまいます。
遠藤周作の「沈黙」が、なんというか、結局、直木賞的作品なんだよね、と斜に構えた受け取りをする、ま、ダメンズなわたしがおるわけです。
真性の実存主義的演劇っていうやつを、いったい、どんな顔をして見ていればいいのか、困惑してしまうということになります。
で、「沈黙」を聞いている時も、頭がもやもやして、困り顔って言う感じが漂いました。
松村さんは、わたしより、ずっとうえの世代ですから、転向の主題は、もっともっと、切実なものがあったはずです。
さて、幕切れの決定的瞬間、ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、イエスは、「踏むがいい」といってくれたんでしょうか?転ぶも地獄、転ばぬも地獄の、不条理で立ちすくむ時に、絶対者は、答えてくれるんでしょうか。
久しぶりに、ジジイに、深い、疑問形を味合わせてくれた、松村さんの音楽は実に立派なものだと思います。
演奏も総じて、なかなかよかったんではないでしょうか。
ただ、このオペラの肝である、ロドリゴとキチジロウは、本当は、もっともっと、ドストエフスキー的凄みがないと駄目なんだと思います。とくに、キチジロウをまともに、具現化するなんて、よほどのことです。
小餅谷哲男(ロドリゴ)さんや星野 淳(キチジロー)さんがだめというより、誰に出来るのか、想像すらできません。
それに比較し、吉田浩之(モキチ)さんや、高橋薫子(オハル)さんは、オペラチックに気分よくきいていられました。
下野竜也さんも、上々の指揮ぶりだったと思います。
それにしても、子どもたちの民謡調の調べの美しいこと(でも、意味はエンガチョ、ってことだよなぁ)。ほんと、よいオペラでした。
指揮 下野竜也
演出 宮田慶子
美術 池田ともゆき
衣裳 半田悦子
照明 川口雅弘
ロドリゴ 小餅谷哲男
フェレイラ 黒田 博
ヴァリニャーノ 成田博之
キチジロー 星野 淳
おまつ 与田朝子
少年 山下牧子
じさま 大久保 眞
老人 大久保光哉
チョウキチ 加茂下 稔
井上筑後 守島村武男
通辞 吉川健一
役人・番人 峰 茂樹
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
0 件のコメント:
コメントを投稿